伎楽・妓楽(ぎがく)


伎楽・妓楽(ぎがく)とは、雅楽の唐楽や高麗楽と同じく、古代に日本に伝わった舞楽・芸能で、「呉楽(くれがく)」とも呼ばれます。ルーツについては諸説がありますが、中国南部の国であった「呉」の舞楽に由来するというのが有力な説のようです。
厳かなイメージの現在の雅楽と比較すると、とてもカジュアルな音楽だったようで、行道楽という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇、仮面劇によって構成されていたものと推察されています。

ぎがく【伎楽】
1 日本最初の外来楽舞で、こっけい・野卑な無言仮面劇。推古天皇20年(612)百済(くだら)の味摩之(みまし)が中国の呉(くれ)の国で学んで伝えたという。飛鳥(あすか)・奈良時代を最盛期として衰え、江戸時代に滅びた。呉楽(くれがく・ごがく)。呉の歌舞(うたまい)。
2 仏教で、音楽のこと。

大辞泉(小学館) より




●伎楽の概要

伎楽と妓楽はルーツは違うのかも知れませんが、日本に伝来後は同じ音楽を指していると思われます。ちなみに楽家録では「伎楽」、教訓抄では「妓楽」と表記されています。
伎楽はいくつかの舞曲で構成される、一種の組曲ですが、唐楽や高麗楽のような格調高い舞曲ではなく、滑稽な仮面劇の要素が強い舞曲だったようです。


奈良・平安京朱雀大路の一隅から、笛と鼓の音が響き渡りました。頭が金色の獅子や、緑色の目、大きな鼻、紫色の髭、さまざまな表情のお面をかぶった一団、大道滑稽仮面劇「伎楽」の行列です。やがて演技が始まると笑いと拍手が湧き起こります。

『第二回 渡来人の里講演会「隣国からの贈りもの 高麗楽・伎楽」 講師 芝祐靖 平成十七年六月二十六日(日)午後二時 於 高麗神社三集殿二階大広間』使用テキストより




●伎楽の編成

さてこの舞楽組曲の構成ですが、「楽家録」と「教訓抄」にそれぞれ記載があるので、以下に引用して記します。両楽書では、名称や曲数等の記載に若干の違いがあります。

■楽家録の記載による編成

・昊土(呉王)
・金剛 
・力士 
・迦婁羅 
・崑崙 
・婆羅門 
・大狐 
・酔狐
第卅三十七 伎楽之笛相伝
舊記曰ク、伎楽ノ笛ハ戸部氏相伝ノ曲也。 
則方ノ時ニ於テ始テ之ヲ狛行光ニ伝ヘ、是ヨリ遂ニ彼流ノ相伝ト為云々
凡そ伎楽ノ號(号)ハ音楽稱(トナ)ヘル如ク乎、然レドモ舊記ニ八曲ノ目録ニ見ヘ、之ヲ左(下)ニ挙ル

・昊土 一説ニ呉王 ・金剛 ・力士 ・迦婁羅 ・崑崙 ・婆羅門 ・大狐 ・酔狐   
已上伎楽八曲
(楽家録巻之十二「横笛」 安部 季昌 -日本古典全集-)より筆者読下し


■教訓抄の記載による編成

・獅子舞
・誤公
・金剛
・迦桜羅
・婆羅門
・崑崙
・力士
・大狐
・酔胡
・武徳楽

教訓抄 巻第四 他家相伝舞曲物語 中曲等 妓楽

一妓楽
世楽八日仏生会ト曰。七月十五日妓楽会ト曰フ。此笛大坂府生則方之流也。 一方狛行光、一方尾張則元。 舞者東大寺職掌紀氏之ヲ伝フ。 興福寺ニハ、大神氏井坂田氏、寺役等舞也。

此舞者、聖徳太子之御時、百済国ニ従フ舞師渡被 味摩之ト云フ、 伝ヘ置所ヲ妓楽ト云フ。
先ズ禰取 盤渉調音。 次ニ調子 之ヲ道行音声ト謂フ。或ハ道行拍子ト曰ク云々 。 是ヲ以テ行道為。立次次第者、先ズ獅子、次ニ踊物、次ニ笛吹、次ニ帽冠、次ニ打物 三鼓二人、銅拍子二人。

先ズ、獅子舞。
其詞、壱越調音、「陵王」破ヲ以テス、換頭有リ。
古記、破、換頭三反、高舞三反、口下三返。何事哉。

次ニ、誤公。 扇持タリ。
三返吹ク可シ。盤渉調音ニテ之ヲ吹ク。紀氏舞人説ニハ、舞人舞台ニ出シ後、楽屋ニ向ヒ、笛吹由スル時、笛吹也。又笛吹ヨシスル時、笛ヲ止之。

次ニ、金剛。
三返吹ク可シ。盤渉調音ニテ吹ク也。或ハ[目録]、仮蘭、前妻、唐女。 トウ名アリ。是知不、尋ヌル可キ也。

次ニ、迦桜羅かろら
之ケラハミト謂フ。拍子十三、三返吹ク可シ。而シテ近代別曲有ト雖モ、「還城楽」破ヲ吹ク也。舞人走手舞。

次ニ、婆羅門。
之ムツキアラヒト謂フ。又抃悦名ズク。拍子十一、三反吹ク可シ。壱越調音ニテ之ヲ吹ク

次ニ、崑崙。
拍子十、三返吹ク可シ。壱越調ニテ之ヲ吹ク。先ズ女、燈臚前立ツ。 二人打輪ヲ持チ、二人袋ヲ頂ク。 其後、舞人二人出テ舞、終ニハ扇ヲフカヒ、マカケヲ指テ、五女之内二人ヲケサウスルヨシス。

次ニ、力士。 手タタキテ出ル、金剛門ヲ閉ジル。
壱越調音ニテ、火急ニ之ヲ吹ク。三返吹ク可シ。之マラフリ舞ト謂フ。彼五女ケサウスル所、外道崑崙ノカウ伏スルマネ也。マラカタニ縄ヲ付テ、件ラウ打ヲリ、ヤウヤウ[ニ]スル躰ニ舞也。
或人云ウ、尺迦仏ノ御手也。ヨバイニマハスルトハ是也ト云フ。

次ニ、大狐たいこ。
又継子ト名。序吹物、三返吹ク可シ。平調音ニテ之ヲ吹ク。老女ノ姿也。子各二人ヲ[グシテ]、腰ヲオサシ、膝ヲウタセテ、仏前ヘ参詣シテ、左右脇、子ヲキテ、仏ヲ礼シタテマツル。

次ニ、酔胡すいこ。
又酔胡王ト云フ、刀禰ト云フ、人丸ト云フ、ハラメキト云フ。壱越調音ニテ、五返吹ク可シ。別曲有ト雖モ、近来「承和楽」ヲ用ル。尾張則成説ニハ、忠拍子 之ヲ吹ク。

次ニ、武徳楽
壱越調物也。而テ舞故ニカ近来之ヲ用ラ不。 天王寺于ニ之ヲ今舞。
太子伝曰ク、推古天皇廿年春正月一日カ、百済味摩之 みまし 化来自曰ク、誤国ニ学テ伎楽舞ヲ得ス。則置桜井村ニ安ク。而テ少年ヲ集テ習ヒ伝ウヲ令ズ。今諸寺ノ伎楽舞ハ是也。

 已上十妓楽此ノ如シ。有光家[ニ]ハ八妓楽云。其故者、崑崙、力士ヲバ一曲ニスル故ナリ。「武徳楽」ニ於テ目録ニ入ト雖モ、昔自リ之舞ハ不。
(古代中世芸術論 「教訓抄」-岩波書籍-)より筆者読み下し




●復曲・創作

現在では復曲・創作曲として、昭和55年に芝祐靖氏により、「行道乱声」「獅子・曲 子」「呉 公・呉女」「迦楼羅」「崑崙」「婆羅門」「金剛・力士」「太孤」、平成2年に「酔胡」がそれぞれ作られ、発表されています。



●往時の演奏作法(楽家録より)

今世佛生會、興福寺ニ於テ法會有リ、笛吹クヲ以テ伎楽ト号スル也。今按ズルニ、伎ノ字意ハ無シ。此ノ説音楽合楽奏楽等ヲ稱ヘル類也。

抑伎楽ト言ハ、笙篳篥ノ曲ニ非ズ、三鼓用ズ、特ニ横笛秘曲ヲ為シ、甚ダ之ヲ重ル。南都ノ楽人狛氏ノ近代之ヲ伝ヘ、今ニ至リ、和洲興福寺ノ金堂ニ於テ、毎年四月八日 申刻 此曲ヲ奏ス。然レドモ惟フニ声楽ハ聴クガ舞ハ断絶ス、只其ノ遺法存ルノミ也。其ノ法ハ仏経ヲ誦ヘ終ヘシ後、左楽屋ヨリ笛ヲ奏ス 狩衣ヲ著ス。 時ニ舞人四人出テ 先ズ二人寺ニ侍テ、次ニ二人右方舞人狩衣或ハ垂衣ヲ著ス。素ニ定メル装束ハ無シ。古存リ、而テ今ハ断絶ス。

各々面ヲ著シ梅ノ梢ヲ持テ舞ヲ奏デル 舞ハ東遊遊ニ似タリ。而シテ太ク短ヒ舞像ト為シ、面形ニ於テハ尋常ノ舞楽面ニハ似ズ、皆鬼面ノ如ク也。 而シテ金堂ノ外ヲ廻リ、一返畢リテ各々楽屋ニ入ル、次ニ舞人二人出 寺侍ノ役、其ノ法及ビ装束初メノ如ク、面亦鬼面ノ如ク。 少舞ヲ奏シ、而テ楽屋ニ入リ後ニ曲止 番舞ハ無シ。

(楽家六巻之十二 「横笛」 安部 季昌)より筆者読下し




●伎楽の伝来

伎楽伝来の事は、先に抜粋で記載した「教訓抄」に記載がありますが、その出自は「日本書紀」の推古天皇20年(612年)5月に、百済人の味摩之(みまし)によって伝えられた記事によります。味摩之は伎楽の舞を伝え、奈良の桜井に少年を集めて教習したとされています。
また『新撰姓氏録』(弘仁6年(815)成立)の和薬使主の系譜には、欽明天皇の御世に大伴挟手彦に随って、呉国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、典薬書や仏像等とともに「伎楽調度一具」を献上した記事の記載があります。これがどうやら一番古い、伎楽の伝来を記した記事のようです。

豐御食炊屋?天皇・・・(中略)・・・廿年・・・(中略)・・・夏五月五日・・・(中略)・・・又百濟人味摩之歸化。曰、學于?、得伎樂?。則安置櫻井、而集少年、令習伎樂?。

「日本書紀 岩波文庫」 巻廿ニ 推古天皇紀より



和薬使主
出自呉國主照淵孫智聡也欽明天皇御世随使大伴佐弖比古持内外典薬書明堂ノ圖等百六十四巻大佛像一躯伎楽調度一具等入朝男善那使主孝徳天皇御世依献牛乳賜姓和薬使主奉度本方書一百丗巻明堂圖一薬臼及伎楽一具今在大寺也

「新撰姓氏録」 国立国会図書館所蔵より



余談ですが、上記文献には「男善那使主」が孝徳天皇の御世(645〜654)に牛乳を献上したとの記載も見えますが、これが日本での牛乳利用の初見のようです。




●その後

伎楽は伝来後、聖徳太子の奨励などによって寺院の音楽として移し置かれました。律令の制度下では、雅楽寮に伎楽師と腰鼓師(伎楽の伴奏楽器奏者)が置かれ、東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演されたようです。
  
ところが奈良時代にさかんに演奏されていたこの伎楽は、平安時代以降は次第に衰退していきました。南都方楽人により、明治2年まで細々ながら行われていた東大寺、興福寺の仏生会伎楽での演奏を最後に、伎楽の演奏は行われなくなっていました。

上家は雅楽竜笛の他に「伎楽笛方かた」として伎楽の笛を相伝し、東大寺興福寺仏生会(4月8日)の伎楽笛役を勤めた。差支へては芝家に代勤を依頼し、明治2年(1869)の最後の伎楽には上真節に代って芝葛鎮ふじつねが興福寺にて伎楽笛を奏し、その後は「伎楽笛譜」を伝えられるのみと成っている。

(『雅楽通解 楽史編 』-芝祐秦-)より

法要に際しての上演はその後、昭和55年10月東大寺大仏殿落慶法要にて復興(創作)伎楽の演奏が行われています。

一方天王寺楽所を継承している雅楽団体では、現在でも「獅子」の楽曲が伝えられています。龍笛と打楽器のみで奏されるこの曲は、毎年聖徳太子の命日に行われる四天王寺聖霊会にて上演されている曲で、伎楽の名残を留めている楽曲といわれています。ただ残念なことに獅子の舞は途絶えており、現在では曲にのせて単純な所作のみが、石舞台上で行われています。